2016年9月20日火曜日

リワークで過ごす体験が、現実からの逃避にならないために 〜リワーク体験が治療的なものとなるかどうか〜

リワークでの体験は、時とともに変化します。
例えば、参加当初はリワークにストレスなく通っていたメンバーがいたとします。
その人が、復職が決まりリワークを卒業するまで、ずっと同じ状態でいられたとしたら、すなわち、ストレスなく通い続けられていたとしたら、あなたはどう思いますか。
「リワークでストレスを感じず、欠席もせずに続けられたから、大成功」と思う方もいるかもしれない。

しかし、リワークに参加しているメンバーの多くは、そうは思わないはずです。

実際には、何らかのきっかけ(これはメンバーによって異なります)が起こります。
これによって、「(職場と違って)ストレスなどない」と感じていたリワークが、職場に似た困難な場所に変容します。
具体的には、欠席という行動によってそれが表現されることが多いのです。
これが休職の再現に極めて近いものであることは、さほど説明を要しないでしょう。

「ストレスがないはずのリワークが、職場と似た不快な体験が起こりうる場所である」と体験することが、治療的な意味を持ちます。
なぜなら、この変化によって初めて、「一体何に不快やストレスを感じて、リワークが苦しい場所に変わったのか」ということを、リワークの中の具体的な体験を素材にして考える機会が得られるからです。
リワークが苦しい場所になってしまったのだから、これは辛い体験です。
辛い体験ではありますが、ここで何が辛くなっているのかを自分自身に問い、それをグループに話して一緒に考えたり、スタッフとの個別相談で一緒に考える体験をどれだけ持てたかが、リワークという集団療法での中核的な治療体験になるのです。

この治療的な体験に取り組むときに、自分が本当に感じていた心の声が、少しずつ誰かに語られるかもしれません。

「プログラムなどでの付き合いを通じて、あるメンバーが嫌になってしまった。」
「信頼していたスタッフだったのに、自分のことがわかってもらないと感じて、失望してしまった。」
「集団に溶け込めないと感じ、孤立感に悩んでいる。」
「リワークに意味や意義を見出せず、時間の無駄だと思うようになった。」
「復職が近づいてきたけれど、実際はあんな職場に戻りたくない。少しでも先延ばししたい。」

リワークという集団における治療体験では、自分が今の集団や場所のなかで、何に辛くなっているのかを考え始められるかどうかが鍵を握ります。
「辛い」という言葉では体験の性質が限定されるので、「リワークに参加しているうちに、自分自身や集団に対していろいろと考える機会が増えたり、モヤモヤとしてスッキリしない体験が増えてきた」と、言葉を広げてもいい。
ただ、やはり、自分がリワークの中で行き詰まったり、悩んだりすることがないと、リワークでの治療体験のインパクトは薄れるでしょう。

悩みながらも考え、怖いけれども、相手にその思いを言葉にしていく。
そうする過程が、自分自身について内省的に知るきっかけを生むかもしれない。

リワークのなかで、実際の対人関係に苦しみながら、それを職場で自分に起きていたことと連関させられるような気づきの体験がないと、リワークは非常に浅い体験になっていることが示唆されます。
リワークで実質的な治療的な体験を持てなかった場合は、職場に戻っても、不快なことや大変がことが自分の身に起こったら、容易に「欠席」という未熟な方法に頼ってしまうことが起こります。

リワークが、職場という辛い場所と切り離されたままになっていないだろうか。
リワークと職場とが、完全な別ものだと感じていないだろうか。
例えば、次のように。

リワークは良い所/職場は悪い所
リワークは楽な所/職場は大変な所
リワークはぬるま湯/職場は熱湯
リワークは楽しい所/職場は辛い所
リワークの人たちは優しい人/職場の人たちは優しくない人
リワークスタッフは良い人/職場の上司や同僚は悪い人
リワークはやり甲斐がない/職場はやり甲斐がある

上記の対立関係は、リワークと職場とが切り離されたままだと、リワークで辛いことがあった場合に、容易に反転します。
例えば、
リワークは大変な所/職場は楽な所
などと。

リワークと職場とが切り離されたままだと、リワークで自分自身に悩んだり行き詰まりを感じることも、ほとんどないことでしょう。
それはしかし、「リワークの中では、見たくないものを見ないようにしている」からかもしれません。
リワークを、意識的にか無意識的にか、職場とは違うものとして保存し、それを維持しようとしていないか、問うてみて下さい。
今のリワークが「現実からの逃避」になっていないか、自分に問うことが必要だと思います。

リワークの参加期間が長くなっているメンバーの方は、そうした自分の状態に対して、程度の差はあれ自覚的になり、モヤモヤした思いを抱くと思います。
そうしたモヤモヤの中でも、自らに問うのが辛い問いの一つに、「リワークに居続けているのは、職場などの外の世界に出て行くのが辛いからなのではないか」という問いです。
復職という辛い現実に向かうのではなく、リワークに逃避しているのではないか、という問いです。
これは辛い問いですが、参加期間が半年以上となり、1年が近づくにつれて、この問いは真剣に問うべき問いとなるでしょう。
リワークが長くなっているメンバーの方は、この問いを軽視せずに、向き合えるかどうかです。それは、自分にとってリワークが治療的な場になっているかどうかを、問うことですから。
参加期間が長くなっているならば、「見たくないものを見ないようにしてリワークを続けていないか」という葛藤が、その時間を意味のあるものに変えるかもしれない。

参加してまだ早いメンバーの方も、リワークに参加し続けていれば、いずれこのように悩んだり、葛藤するときが訪れるでしょう。

CRESSでは、リワークで実質的なプログラム体験を持つには、3ヶ月は必要であると考えて、3ヶ月以上は参加してもらえることを最初の段階で確認しています。
そして、原則、1年間を参加の上限としています。
このように、参加期間は、リワーク体験の重要な条件です。
しかし、時間の長さは、必ずしも治療的な深さを保証しません。
そのリワークでの時間を、治療的なものにできるかどうかは、やはりその方がどれくらい悩み、それを考え、「見たくないものも見たか」に大きく依存していると思います。

今日の記事は、リワークでの楽しい体験を否定するものではありません。
リワークでの楽しさは、そこでの情緒交流を意味していますから。
それは、復職に向けての大事な準備ですし、そうした陽性の情緒体験じたいが、治療的な意味を持ちます。

しかし、リワークが多面的な体験となっているかは、考えてもらいたいことです。
一面的な体験(例えば、「楽しい」という以外にはあまり思いつかない)であれば、それは、リワークと職場とが切り離されたままかもしれない、と疑ってみてください。

多面的な体験が持てているメンバーがいる集団であれば、その集団は治療的な力を持てることでしょう。
しかし、一面的な体験でよし、としているメンバーから構成される集団であれば、その逆のことが起こることでしょう。

そして、やはりリワークである限りは、私たちは前者の集団として成長できるかどうかを目指したいものです。

それは、自分と、リワーク集団とを、別ものとして見るのではなく、自分はリワーク集団に影響を与えているし、自分もリワーク集団から影響を被っている、という視点を提供してくれます。

1 件のコメント:

  1. リワークの本質的な意義を解説されているとても大切な記事だと感じました。

    参加者のみなさまには、生活の糧を得るための仕事(なりわい)とどう向き合うのか考えるとても大切な経験をされているのだとおもいます。

    実際問題として、仕事はしないといけないわけです。

    葛藤の中で人は生きています。

    リワークでも同じ体験をしてそれを乗り越えられる力を付けて、本来の自分の居場所に戻られることをお祈りしております。

    私も道半ばですが、自分のペースで今与えられた場所で無理をせず、ベストを尽くして生きていこうと考えております。

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